「正統的」な音楽と歌唱の技巧

最近(と言っても数ヶ月前のことだが)買ったデイヴィド バーンのアルバム"Grown Backwards"を聴いて、気になったことがある。Grown Backwardsに収められている曲は、ラテンや米国南部の音楽をバーンのフィルタを通して処理したようなものが多い。全体を通してみると、可も無く不可も無くといった感じのアルバムだが、その中で際立って異質なクラシカル ミュージックの曲が2曲ある。

 

一つはビゼーの「神殿の奥深く」、もう一つはヴェルディの「幸福なある日」だ。この2曲を聴いて「バーンは歌が下手だなあ」と思ってしまった。もちろん、いきなり下手になったわけではない。昔からバーンは歌が「下手」だったのだ。しかし、トーキング ヘッヅの曲は、通常の意味での歌唱の技巧が関係するようなものでは無い。むしろ、バーンの不安定で神経症的な歌唱が、鋭角的な感触を増大させる役割を果たす。しかし、クラシカル ミュージックのアリアでは、歌唱の技巧は重要だ。バーンの不安定な歌唱では、はっきり言って聴くに堪えない。何故バーンがクラシカル ミュージックに挑んだのか、理解できない。

 

似たような感想を、ブライアン フェリーの"As Time Goes By"を聴いたときにも感じた。こちらは、正統的なポピュラー ミュージック(表題曲の"As Time Goes By"は映画「カサブランカ」の曲だ)をジャズっぽいリズムに乗せた曲が多いのだが、ここでのフェリーの不安定な歌唱も聴くに耐えない。"Boys and Girls"において、サウンドプロダクションの妙もあっていい雰囲気を出しているのとは、大違いだ。

 

正統的(何をもって「正統的」というのかは難しい話だが)な音楽においては、正統的な技巧が要求されるのだろう。